鶯丸(鶯太刀友成)の参考文献メモ
鶯丸に関する記述がない文献も載せています。(記述がないというのも情報のひとつとして。)
年代表記があるものは、出版年。
★=オンライン閲覧可
☆=図書館内通信で閲覧可(近くのオンライン契約している図書館でよめる。抜けがあるかも)
リンク先があるものは詳細を記載しています。
誤字、脱字等もありますので必要であれば、直接原本をご確認ください。
(イチから調べていくのは大変なので、これから鶯丸を調べる際の一助にしていただきたいです。)
室町〜江戸の文書類
(ほとんどが後世に活字化してまとめられたものを読んでいます。)
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[A1]小笠原文書もしくは勝山小笠原文書
勝山藩小笠原家に伝わった足利尊氏からの書状を始まりとした文書群。
結城合戦褒賞として鶯太刀友成(鶯丸)を下賜したときの感状を含む文書。鶯丸に関する原典。
小笠原文書は現在東京大学史料編纂所および早雲寺に所蔵。但し、鶯丸の感状は本体に付随している。
- [A2]慶元古文書★
江戸時代初期に諸家の感状を集めたもの。
感状の内容がそのまま載っているので、「鶯太刀友成」表記。
室町時代に『鶯丸』と呼ばれていた根拠とされているがそれは誤り。
- [A3]後鑑★
江戸時代に編纂された室町時代の歴史書。結城合戦に関する記述で、鶯丸感状の内容が記載されている。
- [A4]寛永諸家家系図伝
徳川家光の命で1461-1463に編纂した諸家の家譜。勝山藩、小倉藩それぞれの小笠原家が独立の家譜となっている。
勝山藩小笠原系列の家譜部(政康の項)に鶯太刀の記載あり。
- [A5]寛政重修家譜☆
1789-1801に幕府が編集した家譜集。勝山藩、小倉藩それぞれの小笠原家が独立の家譜となっている。
勝山藩小笠原系列の家譜部(政康の項)に鶯太刀の記載あり。
信胤の項に元文元年九月十三日(1736/10/17)に友成作の鶯の太刀を吉宗に台覧とある。
- [A6]小笠原系図(続群書類従)
群書類従は古代から江戸初期の書を集めたもの。家譜の部があり、小笠原家の系図がそれぞれ記されている。
- [A7]勝山小笠原家譜
- [A8]笠系大成
政康甥を祖とする後の小倉藩主の小笠原家家譜。結城合戦褒賞が鶯太刀友成でなく、守家となっている。
- [A9]溝口家記
政康甥を祖とする後の小倉藩主の小笠原家家譜を編纂するためにまとめられた。結城合戦褒賞が鶯太刀友成でなく、守家となっている。
- [A10]豊前豊津小笠原家譜
- [A11]
有徳院殿御實紀附録巻七(徳川実紀第六巻)★
信胤が吉宗に鶯太刀を台覧したことが記される。
- [A12]御当家末書
政康甥を祖とする後の小倉藩主小笠原家に伝わる宝刀のリストが入っている。
小倉藩主・忠雄の時代の?。
もう一振りの"鶯"太刀(摺り上げ)の記述あり。
ちなみに、このリストには不動行光は載っていない。(豊臣から拝領との説もあるがもっと時代を下るのか?載せてないだけか?)
- [A13]八幡宮菱華銘
小笠原家代々の家臣・脇屋嶺忠著。題名からして八幡に奉納の銘文か?本文中に元禄五年(1692)とある。
結城合戦の褒賞のくだりで「鎧雄剣 号鶯丸 銘友成」と書かれる。
- [A14]菱実紀聞
小笠原家の侍医であった西門蘭渓著(天保3年)。政康拝領や鶯太刀祭りについて記載。
また鶯丸が土用干されていたことが伺えることが書かれている。
- [A15]松井家文書-年中行事(勝山市史資料篇1所収)
年中行事に土用干があり、御武器が土用の時期に虫干しされていることがうかがえる。
- [A16]森家文書(勝山市史資料篇1所収)
吉宗台覧前後のことが書かれている。
近現代に編纂の歴史史料等
- [B1]信濃史料[1951〜1969(昭和26〜44)]★
小笠原文書をはじめとした史料がまとまっている。「小笠原文書」の鶯丸の感状も記載。
政康死後、争乱が続く小笠原家の中で「小笠原文書」と
伝来の宝刀がいかなる経路をたどったのかのヒントとなるが
史料の編纂なので史実的な検証は入っておらず、
相反する主張の史料が並べられて居たりする。
- [B2]松本市史(1973 昭和48年)
信濃における小笠原家の歴史史料としては一番とされる。
鶯太刀祭りの起源とされる、「嘉吉12年3/15に八幡宮に政康が出陣前に詣でた」ことに関し、政康の下総出陣時期とずれていると指摘。
- [B3]下伊那史(1955 昭和30年)
信濃における小笠原家の歴史に関し、詳細に記載されている。
- [B4]勝山藩古事記(昭和6)☆
勝山の歴史をまとめたも郷土資料。鶯丸が一章まるまるフィーチャーされている。
巻頭に、「鶯丸鑑識書」がばばーんとはられている。
鶯太刀祭りについても言及。
本文中で、小笠原→大正天皇(明治天皇の誤植と巻末にあり)献上となっているが、
巻末で、宮内省御用係小山田繁蔵に鶯丸次第を問い合わせたとして訂正が入っている。
『宗伯爵閣下の手を経て伯爵田中光顕閣下より明治天皇陛下に献上せられ』
- [B5]明治天皇紀(1968-1977 昭和43-52)
他の多くの著名な献上刀剣が献上の事象を記載されているが、不思議なことに鶯丸に関しては記載がない。
- [B6]明治四十年特別大演習茨城県記録(1909年)
結城市陸軍大演習の記録。茨城県側がまとめている。
謁見者や、献上品リストが網羅されているが鶯丸献上の記録はなし。
田中伯は全日程随行している。(宮内大臣なので遂行責任者ともいえる)
- [B7]福井県大野郡史★
勝山藩のあった大野郡の郷土史。勝山藩小笠原家に関して記載されており、鶯太刀祭りが行われていた
神社に関して詳細に記されている。
伝記・回顧録等
- [C1]伯爵田中青山☆
鶯丸を明治帝に献上した田中光顕の伝記。
結城大演習の前年に宗重望伯爵(宗重正の息子)から譲り受けたことが記載されている。
- [C2]維新風雲回顧録★
鶯丸とは直接関係ないが、鶯丸を献上した田中光顕は元土佐藩士で維新志士時代に坂本龍馬と交流があった。
田中は近江屋事件で坂本と中岡慎太郎が切られた後に駆け付けた一人。坂本が最期に手にしていた刀(=陸奥守吉行)の記述がある。
- [C3]春城漫筆(昭和4)★
市島謙吉著随筆における「名刀の如き田中伯」の章において鶯丸献上のくだりが書かれている。
足利義教から結城合戦戦勝で小笠原が賜りのちの勝山藩に伝わり、對州の宗伯にわたり田中伯の手に帰したので結城に因む歴史があり、
戦勝にも因める"勝山"にも縁があるということで献上した、とある。
刀剣本類-1 (鶯丸の写真付きの書籍類)
- [G1]皇室の至宝4 御物 彫刻・工芸(平成3)
宮内庁協力。刀剣の解説は小笠原信夫氏。鶯丸の具体的な作風が書かれる。現在も感状が太刀に付随しているとの記載あり。
- [G2]The 刀[国宝、御物、業物」日本刀にまつわる人物と伝説 (2014)英和出版ムック本
鶯丸の写真と簡単な解説付。鶯丸の解説の内容は[G1]がもとになっている。
- [G3]国宝日本刀特別展目録 : 刀剣博物館開館記念[1968(昭和43)]☆
鶯丸が刀剣博物館で展示された特別展の写真付目録。御物も多く出陳されている。
- [G4]ジャパノロジーコレクション 刀-KATANA-
小笠原信夫氏著。写真を多用した文庫本サイズの入門書。古備前友成の項に鶯丸の写真あり。
- [G5]日本刀の鑑賞基礎知識(1989初版、2019復刻)
小笠原信夫著 各時代の代表作品に鶯丸の写真がある。古備前友成の説明があるが鶯丸に関して特に本文で言及されてはいない。
- [G6]刀剣鑑賞の基礎知識(2016)
得能一男著。表紙を開いてトップバッターに鶯丸の写真。鶯丸本体の説明はないようだ。
刀剣本類-2
- [D1]刀剣談 [1910(明治43)6月]★
新聞に掲載したコラムをまとめたもの。鶯丸が小烏丸と同時期に宗重正のもとにわたり、
宗重望から田中伯爵が買い上げ、田中伯爵が献上と記載。
=>[F1]〜[F4]の明治21,明治32年新聞記事から、鶯丸を小烏丸と同時期に手に入れたというは誤りであり、
小笠原家と宗家の間にも他の人の手に渡ったことがわかる。
- [D2]日本刀大百科事典[1993(平成5)11月]
事典の名の通り、刀剣にかんする諸用語、刀工、名のある刀剣の説明が網羅されており
参考文献もひとつひとつに付記してある。
鶯丸来歴でよく引用されているが、鶯丸に関しては正確でない内容が記載されている。
宗→秋元→田中となっているが、田中伯本人が、宗伯から買ったと言っている([C1]伯爵田中青山)。
「鶯丸」の名は慶元古文書にあるとあるが、そんなことはない。
=>考察は明治期まとめへ
- [D3]刀剣と歴史(423) [1965(昭和40)]☆
日本刀剣保存会雑誌。押型が載っている。将軍足利義教から信濃守護小笠原政康が拝領したもので、明治になって田中伯爵が献上とある。
- [D4]日本刀:本質美にもとづく研究(初版昭和39、再版昭和40(1965))
鶯丸本体に関する記述はないが、現・東京国立博物館蔵の国宝・銘備前国友成造の項に、『類品に鶯丸がある』と記述。
また、鶯丸のふくれを修復したとされる高田庄左衛門の人となりが触れられている。(奇行が多い人)
- [D5]御剣(平成10)
皇室に関連する刀剣の図録。鶯丸は載っていない。友成は水戸徳川家献上で現東京国立博物館蔵の銘「備前国友成」が掲載。
- [D6]刀剣講話(明治33〜36)★
刀剣に関わる講話を起こしたもの。手書きで読みづらい。
明治32年の「備前刀」の講話で鶯丸や友成に関して触れている。
「小笠原家にはなく故あって他に出ている」とある。
- [D7]剣話録 下 明治45 ★
上記の[D6]刀剣講話を活字化して再録。内容は同じ。
明治45年出版で、すでに鶯丸は献上されているが
本文は明治32年当時のままの表現になっている。
- [D8]刀剣一夕話
刀の号の由来をカテゴライズする中で、「鶯丸友成」が出てくる。
- [D9]日本刀の歴史 古刀編[2016年5月]=日本刀の研究と鑑賞(古刀編)[1994]の再編集
古備前友成の項に、「旧対馬藩宗家伝来の鶯丸が有名」となっている。
宗家に存在したのは確かだが、明治維新後に手に入れたもので伝来の品ではない。
「友成の銘」の図に五振分の茎が載っている中に、鶯丸の茎あり。(友の字の横棒"一"の右側に目釘穴がかかるもの)
- [D10]刀剣[1906〜1909(明治39〜42)]☆
田中光顕、宗重正らが発起人となっている「刀剣会」の会報。
明治39〜41年までざっと目を通したが特に鶯丸の情報なし。
献上年(明治40)にも特記されず。
- [D11]刀剣と歴史(123)☆(大正9.12)
小烏丸の由来に関する項において、
「小烏丸を維新後伊勢家より宗家が譲り受け、数年所持したのち献上」とある。
献上(明治15年)の数年前に手に入れた(明治維新直後ではない)ことが推測できる。
- [D12]刀剣と歴史(417)☆
「研師の回顧」で鶯丸は献上前にフクレを修復されているという話が載る。
- [D13]刀剣と歴史(445)☆
「明治天皇の刀剣」の「座右の愛刀」の項において、鶯丸の来歴が触れられている。(田中伯が自詠とともに献上と)
- [D14]日本刀大観★(昭和17)
古備前友成の項で『友成は(略)旧大名の家にも割合多く伝えられている。就中(なかんずく)対州に伝わった鶯丸友成は傑出したもので刀剣界に隠れもなき刀名とされている。』
旧対馬藩主の宗家が手にしたのは、明治32年〜明治39年。(途中、重正が没しているので、息子に相伝してはいる)
=>考察は明治期まとめへ
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[D15]刀剣鑑定秘話(昭和17)★
刀剣の価値の変遷に関する章において、日露戦争の頃に山本達雄が對州宗家伝来の鶯丸友成を1500円で買ったと書かれている。
([C1]において田中光顕は自ら宗重望から買ったと言っている。)
=>考察は明治期まとめへ
- [D16]刀剣人物史(2012)
宗重正が邸内に刀鍛冶を抱える等無類の愛刀家として紹介されている。小烏丸(M15献上)、鶯丸(後に田中光顕より献上)所持の記載あり。
- [D17]日本刀価値考(平成15)/刀の値段史(昭和56)
「日本刀価値考」は「刀の値段史」の増補・改題。
明治期〜昭和の刀剣の値段の変遷が書かれている。「日本刀価値考」巻末附録に明治・大正・昭和の愛刀家略伝において
鶯丸の元主、田中光顕、宗重正に関する記述あり。宗重正の項に蔵刀の一振に鶯丸友成があげられている。
- [D18]日本刀を研ぐ―研師の技・眼・心−(1998)
「明治・大正の刀剣社会と光遜先生のこと」の章で鶯丸が、明治32年頃1500円で宗家から秋元子爵に売られたと記述。
=>考察は明治期まとめへ
- [D19]刀剣 (昭和47)
小笠原信夫著 国宝・備前国友成造(現東京国立博物館蔵)の写真付きページにおいて『御物の名物鶯丸と並んで友成の代表作』との説明がある。
- [D20]名士と刀剣 小倉惣右衛門著 初出・昭和3刀剣会誌、日本刀講座別巻2所収
宗重正が小笠原の鶯丸と久國を所持していたことが書かれている。
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- [E1]国書解題★
古文書・古典籍などの成立年代等が載っている
新聞
[F10]明治21年11月26, 27日読売新聞 別刷り
靖国神社例祭で神社内の遊就館において一般公開された後に、
招待客に公開されたときの参観記の刀剣リストに鶯丸があり。
ジャーナル類
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