伯爵田中青山

昭和四年
鶯丸を明治天皇に献上した、田中光顕の伝記。
複数人による寄稿集。 しばしば鶯丸献上のくだりが出てくる。

P991
第二十九章 寶珠荘の座談
(略)膝うち寛げて伯の談話を聞かんものとて、此歳(昭和四年)七月二十三日伯を 寶珠荘に訪問し(略)座談を試みた。
刀剣の話
(つらつらと刀にまつわる話が続く。高杉晋作に請われて刀を譲った等)
(明治二十八年に広島大本営で助宗の太刀を献上した話。ついでに岩崎彌之助の助平も献上した。)
それから日露戦役後三十九年(原文ママ 正しくは四十年)に下総の結城で 大演習があって結城が大本営になった。
其の前年又僕が名刀を得た。 それは備前の友成である。
さきの大一文字の助宗などよりずっと古いものぢや。 それは大変な歴史がある。何時の頃かね、足利の自分ぢやらう。
義教将軍の頃、 足利持氏の子の二人の公達を主として結城氏朝が結城の城によって兵を挙げたが、 勢利ならずして氏朝は戦死し、
二人の公達は越前勝山の小笠原大膳太夫(原文ママ この時小笠原は信濃守護) のため擒にされて京都に贈る途中美濃の青野原で斬殺された。
其の恩賞として大膳太夫は感状と共に足利家重代の鶯丸と號して居る友成の 刀を貰つたのぢや。
それを小笠原家で代々寶物にして居たが其の後それを 売物に出した。それを伯爵の宗重望が持つていたが、それを売出した時に 僕が買つたのぢや。
今言ったやうな次第で其の刀が結城に大変関係があるから、之を大本営に 持って行って献上した。

P540
第十七章 雲上の二十年(其上)
名剣鶯丸の献上
伯が日清戦役宮内省高等官総代として広島大本営に参侯して助宗の名刀を 献上したる事はすでに記せり。
更に伯は日露戦争役祝捷の意を表するため 明治四十年十一月陛下が陸軍特別大演習御統監のため 茨城県結城町に鳳輦を進められたる際、
伯は其の秘蔵に係る備前友成の作 鶯丸の名刀に

みいくさは戦ふ毎に勝山の 城につたへし太刀たてまつる
大前にさゝくる太刀のつかの間もわれはわすれじ君がめぐみを

と二首の国風を添へて畏き邊に献上し、御嘉納の栄を賜つたのである。
抑も鶯丸の名刀とは何ぞ。
之を歴史に按ずるに、時は御花園天皇の御宇、 足利持氏の遺孤春王安王その遺臣に擁せられて下総結城なる 結城氏朝に依り兵を挙げしに、
将軍義教は大軍を発して結城を攻め氏朝終に戦死するに 至ると共に、
春王安王は小笠原大膳大夫政康及び長尾因幡守豊景の為に擒にせられて 京都に檻送さる途中、美濃青野ヶ原に斬殺された。
茲に於て義教は小笠原政康に賜ふに足利家重代の鶯丸の太刀を以てす。 其の感状に曰く。

今度結城館事 即時攻落 凶徒等悉討捕 剰虜 春王丸・安王丸畢 武略無比類 尤感思食候 仍鶯太刀友成一腰 遣之候也
五月廿六日   義教将軍花押
小笠原大膳大夫入道どのへ

小笠原氏の後裔、徳川時代に至つて越前勝山に封ぜられ、すなわち鶯丸は 勝山城の宝物として伝わりしも、
後故ありて之を伯が手に帰し居りしを、 此の名刀と深き歴史的関係ある結城に行幸を機として献上せられたのである。

P459
第十七章 雲上の二十年(其上)
刀剣会の設立
(略)明治の昭代を迎ふると共に欧化主義は滔々として侵入し、 人心徒らに新を好みて舊を忘れ、顧みるものなく、
しかも明治九年 廃刀令出でて爾来ますます刀剣に対する研究荒廃し、 正宗の名剣空しく菜切り包丁となり、
其の逸品次第に外国人の手に 帰する状態となりしより、伯は之を憂ひ、
明治三十三年其の宮相たりし時代、 同好の士たる
一木喜徳郎、犬養毅、岩崎彌之助、今村長賀、別役成義、 川村景明、片岡健吉、亀井英三郎、田口卯吉、宗重正、長岡護美、
野津道貫、大迫尚敏、松平頼正、松浦詮、寺内正毅、有地品之允、 朝吹英二、西郷従道、三宮義胤、關直彦等と共に
発起人となって刀剣会を設立し、 伯は推されて其の会頭*1となった。

*1 会頭に推挙されたが、宮内省より下賜金を頂く組織で宮内大臣の田中が会頭になるのは よくないということで、
会頭には西郷従道(西郷どん弟)が就任したもよう。
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