明治32年7月ごろ宗重正が鶯丸を手に入れたことについての記事[F3][F4][D20]

7/5の記事において"此程"宗重正が鶯丸を手に入れたとある。
読売新聞では重野某氏が行方を知っているという表現だが 東京朝日新聞では重野某の手にあったと書かれている。
記事の内容読むと、読売のほうが調べてそう。 朝日は読売の内容をかいつまんで書いている印象??
(伯爵の宗重正が子爵と間違って書かれているという共通点あり)
重野某(読売によると鹿児島県人)が持っていたかどうかの部分のみ異なる。
一時期鹿児島にあった可能性がある??

また、[D20]では宗重正が自邸で刀剣鑑賞会を開いており、広く刀剣を蒐集していた中に
特に著名なものとして鶯丸があげられている。
また、同じく小笠原の重宝であった久國も宗重正が入手していたことがわかる。

[F3]明治32年7月5日読売新聞

「足利義教の刀 鶯丸」
越前某地の旧藩主某子爵重代の寶刀に鶯丸と呼ぶがあり能登守教経の佩刀を鍛たる 備前友成の作にて長二尺四寸、足利将軍義教の蔵する所なりしが義教故ありて之を 某家の遠祖に與へ自筆の感状をも添へければ同家に於て上なき 寶物として永く子孫にへ先年同家より粟田口久國の太刀他二口と共に 遊就館へ出陳せしこともあり然るに同家改革の際此四品は去る人の手に流れて 久しく踪跡を知る能はざりしが旧対州候宗子爵は刀剣の鑑識に富みて現 今帝室御物中第一位を占むる平家の小烏が伊勢家を離れて外人の手に渡らんと するを廃刀令発布の当時じ喰ひ止めし程なれば鶯丸の行衛に就ても大(おおい)に苦慮する 所ありしに先比(さきごろ)鹿児島県人重野某氏(安繹博士の親族) 其所在を知るよし風聞せしかば子爵は傳(つて)を求めて某氏を尋ね出し種々 交渉の末此程遂に夫(か)の鶯丸を買い取りたる由

注釈
能登守教経=平教経、清盛の甥
重野安繹=薩摩藩鹿児島郡の漢学者、歴史家で最初の文学博士の一人。(wikiより)
宗子爵=宗重正は伯爵のはずなのだが(明治17に伯爵に)


[F4]明治32年7月10日東京朝日新聞

「足利義教の刀」
越前某子爵家に伝わりし寶刀鶯丸は 備前友成の作にて足利義教の蔵せしを手書を添へて 某子爵に賜りしが其後轉輾(てんてん)して所在知れざりしを 対州宗子爵百方捜索し重野某の手に在るを知り之を購ふて家に蔵す

[D20] 名士と刀剣 小倉惣右衛門著 初出・昭和3刀剣会誌、日本刀講座別巻2所収


宗重正の項
(略・明治三十年以降に宗重正邸で催されるようになった刀剣鑑賞会に関して。
出席者には、田中光顕、今村長賀、別役成義など。筆者である小倉惣右衛門も。)

宗伯爵は以上の如く御自邸で毎月剣会を開催された程の御嗜好家でありましたので、日置老を使嗾 されて盛んに蒐集になり、又、御拵も盛んにご注文になりました。御集めになりました中で、著名な物は小笠原家にありました鶯丸友成の名刀、粟田口久國の刀、延寿國友正中號付の長刀等を一連にして名刀揃のもので、此の友成・久國の二刀には足利家の感状が添って居りましたが、御取入れの際、此の久國には鬼丸の太刀拵を御新調になりました。
小倉惣右衛門=刀剣商・屋号網屋
日置老=日置兼次・明治の刀工のトップ4に入る。
        明治32年6月に宗重正邸に鍛冶場が
        新造されて、お抱えとなっている。

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