明治維新後献上までのまとめ

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明治維新後献上までの来歴概要

明治維新、廃藩置県後、小笠原家は東京に移住。
明治21年11月6,7日に靖国神社遊就館において足利義教からの感状と共に一般公開。 明治22年11月にも遊就館で一般公開。 [F1][F10]
その後小笠原家改革の折売りに出されてんてんとして所在不明だった鶯丸を探し出し 交渉の末明治32年頃旧対馬藩主の宗重正伯爵が手に入れる。 [F3]
(宗重正はM13年前後に小烏丸を手に入れ、M15に小烏丸を献上している人物。)
M35重正没後の明治39年に宗重正子息の宗重望から宮内大臣田中光顕(当時子爵)が買い上げた[C1]。
明治40年の茨城県結城市で行われた陸軍大演習での大本営に 明治天皇が行幸(11/14〜20)のさいに結城に縁があるとして田中光顕伯爵より献上された [C1](献上日未詳)
明治維新後、鶯丸が小笠原家を離れ
宮内大臣田中光顕伯爵より明治40年の 茨城県陸軍特別大演習の大本営において献上されたことは
大抵の書籍において共通です。 しかし、その間のおよそ40年間が近代の出来事にも関わらず 異説が多く存在します。

A 小笠原家を離れた時期

〇(1)明治22年以降小笠原家の改革時に売りに出された。
×(2)明治10年頃、宗重正に渡った。(小烏丸と同時期に手に入れたとの記述[D1]からの類推)
=>明治22年靖国神社で小笠原長育により鶯丸出品の記録 [F10]から、 明治22年には確実に小笠原家に存在。
(1)の新聞記事が存在することにより、説(2)は否定できる。 小烏丸は明治15に献上されているので、小烏丸と 鶯丸を同時期に手に入れるのは明治21年の展示と矛盾する。

*補足* 小笠原を離れた時期に関する考察

小笠原家に伝来している「小笠原文書」(足利尊氏からの書状〜武田勝頼からの書状)の中に
鶯丸が足利義教から下賜されたときの書状(感状)が含まれている。 この小笠原文書は、明治26年に小笠原長育の手により再装丁しなおされた時は183通であった。
現在東京大学史料編纂室および早雲寺に所蔵されているのは183通。 天保2年の謄写本からは5通行方不明とされている。[A1]
行方不明のうち一通は、鶯丸の感状で、[G1]皇室の至宝4によると現在も太刀に付随とある。
このことから明治26年までに鶯丸は感状と共に小笠原から離れたと推測できる。
また、明治32年2月3日の講話において今村長賀が「鶯丸はゆえあって小笠原になく他に出ている」と言っている。
明治22年11月〜32年2月の間に小笠原から離れたのは確かそうであるが、明治26年以前に離れた可能性が高い。

B 宗重正が手に入れた時期と誰から手に入れたか?

〇(1)明治32年に某氏より。
×(2)明治10年頃。(小笠原家からとは明示されてはいないが小笠原からであろう)上述A-(2)に同じ。
=> 小笠原家を出た後行方が分からなくなっていたが、宗重正が所在を知っている人を探し出し交渉し"此程手に入れた"と明治32年7月5日の新聞に記載。 [F3][F4] 宗重正が鶯丸を手に入れたというM32.7の記事はリアルタイムの情報なのでそれなりに信ぴょう性が高い
小倉惣右衛門の明治30年過ぎ頃〜[D20]という証言とも合致する。
上述の、今村長賀のM32.2.3の講話の時にすでに宗家にあったかどうかは不明。

C 田中光顕が手に入れた時期と誰から手に入れたか

〇(1)結城の前年(M39)に宗重望(重正の息子)から
×(2)宗伯から秋元子爵にわたり田中伯へ
×(3)宗伯から山本達雄にわたり田中伯へ
=>(1)田中伯本人が言っている。 [C1]これに勝る証言はないのではないか。
この証言は、田中伯が82才くらいの座談会でのものだが、 献上の1,2年後の新聞のコラムで高瀬羽皐が同じこと (結城1,2年前に宗重望田中伯爵が手に入れた)を書いている。[D1] よって(2),(3)は正しくないのであろう。
山本達雄の友成(現東京国立博物館・国宝)は、よく鶯丸と並んで友成の傑作と書かれていることが多い。混同されている?
秋元子爵経由説[D2]はどのような経緯で混同されているのか、わからない。
山本達雄経由説は、 [D15]刀剣鑑定秘話において日露戦争のころ 宗家から1500円で買ったとある。

その他異説

× 対州家に伝来した。
=> 日本刀大観(本阿弥光遜)[D14]で『対州伝来の鶯丸友成は〜』と書かれている。
対馬藩には伝来していない・・。旧対馬藩主宗家は、明治32〜39まで鶯丸を所持。(上述参照)

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↓の絵は明治22年の展示はまだ反映してません。



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