国宝・太刀 銘 「備前国友成造」について

山本達雄氏が所持していた友成の太刀(現国宝、東京国立博物館蔵)は、
鶯丸と並んで友成の傑作と称されている。

鶯丸が宗家から山本達雄氏に売却された・・・とする資料もあるが、
実際には宗家から田中光顕に直接売却されている。 (明治まとめ参照)

この誤認はどこから来たのか?はよくわからないが、 ひとつの可能性として、この「備前国友成造」と勘違いしたのではないか?
(この宗→山本を記したのは本阿弥光遜で、 この頃本阿弥派と刀剣会(田中光顕、宗重正が所属)とは ぶっちゃけ仲が悪かった。)


山本達雄がいつこの友成を入手したのかは今のところの調査ではわからない。
近衛師団の将校が日清戦争(明治27,28)で昔の殿様からいただいた友成を軍刀として持って行ったいうエピソードがあるらしいので、(後述)
山本達雄が手に入れたのはそれより大分時間がたってからか?
このエピソードは他の書籍では見た事がないので、せっかくなので残しておく。

1928(昭和3) には山本達雄氏所蔵が確認できる。
「刀剣と歴史」211号, 目利の手引「古備前物」近藤鶴堂


世に広く出るのは、昭和5年「第二回名宝展」(読売新聞社主催)であろう。

開催期間中は、連日展示に関する記事が読売誌上を賑わしていた。
その中で、山本の友成に触れられている記事があった。
この記事によると、宝永7年に老中であった井上河内守が将軍より拝領して以来
井上家の家宝だったものを、日清戦争時に近衛師団の将校になった旧藩士に
引き出物として送ったら軍刀として出征していった。
これは今でも有名なエピソードである。
とのこと。

備前友成の大刀(読売新聞昭和5年4月24日)

今を去る約九百四十年永延年間、備前鍛冶の素地を築いた友成改心の作、 友成作の刀は相当現存しているが、 この一口の如き見事な健体を持しているものは無類である。 長さ二尺六寸一分、鎬作り表裏棒樋角留の内、 帯表腰元に素剣の浮彫があり刃は小乱れ小花(足へんに花)付で生忠の六字銘 「備前国友成造」は刀剣家の間で特に推賞されているこの大刀は 宝永七年、老中井上河内守が将軍家より拝領し家宝としていたが、 明治時代になって、井上家の旧藩士で当時近衛師団付の将校であった 赤■氏が井上家から日清役出征の引出物として貰ったもの、 氏はこれを軍刀として戦地に向ったというが時の出征将校中、 これ以上の銘刀を持参した将校はなかったろうと、未だに残る話題である。 現在は山本達雄男爵家の秘蔵である。 「日本號槍」「ヘシキリ長谷部刀」なき会場に、これに代って異彩を放つものである。

注記:日本號と長谷部は期間限定展示だった。
(初日5時間のところをお願いしまくって5日間に伸ばしてもらった) 詳細は黒田の二名宝の記事で
原文に太刀でなく大刀とあったので原文ままにした。

補足の史料として、この老中井上河内守が拝領したエピソードが入っている家譜をあげる。

寛政重修諸家譜 巻第二百四十二 清和源氏 頼季流

正岑(まさみね)
宝永七年九月十四日清揚院殿(徳川綱重)三十三回の法会行わるるのとき 其事を奉行せしにより、備前友成の御刀をたまふ。


注記:宝永七年=1710 、綱重=第三代将軍家光の息子。綱重の息子が第五代綱吉の養子となり(家宣)、 宝永6年に第六代将軍に。
つまり、宝永6年に将軍に就任した家宣が、 翌年実父の三十三回の法要を取り仕切った正岑に下賜。
いろいろな意味があったんだろうなぁ。 綱重は兄家綱、弟綱吉が将軍だった。




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