吉宗台覧の時系列と文献まとめ
元文元年九月十三日(1736/10/17)に
信胤が徳川吉宗に鶯丸が感状とともに台覧したことが記録に残るが、
これは吉宗が享保2〜元文のころに行っていた武器・刀剣調査の一環であった。
まず、吉宗の将軍就任の翌年(享保2年)
『有徳院殿御實紀附録巻七』(徳川実記)
武を講じさせ給ふいとま、常に武器のたぐひ、いにしえぶりの物を、
ひろくもとめさせ給ひしなり。
されば享保二年正月十一日の御祝に(甲冑とか本庄正宗を飾られて云々)
普代の衆参賀の時、御家につたへらるる宝を見せさせ給ふとの御諚あり。
(以降、誰それに何を見せてもらったという記述が続き、その中に鶯丸台覧の記録が残る。後述)
小笠原家にも調査依頼が上意として伝えられたのは
およそ二十年後の享保二十年十月十八日(1735/12/2)に
小笠原家養嗣子であった信胤の実父本多忠統を通して、
小笠原の系図に書かれている文書や重代の太刀今もって所持しているのかを尋ねる上意があった。
この上意が下された享保二十年十月には、信胤はこの年の七月から大坂加番により大坂に滞在中であった。
上意の伝達経路としては、「本多忠統が西内喜内に伝え、
西内が大坂の信胤に伝え、信胤が笹崎文太夫に御用掛を申し付けて勝山に遣わした」となる。
『森文書,御用留』
享保二十年十月十八日 本多伊予守様へ上意有之、
御家御ケイ図御尋、西村喜内へ伊予守様被仰渡、大坂へ申上ル、
十月二十八日 笹崎文太夫御用カカリ被仰付候、勝山へ被遣候
上意御書付左之通
小笠原主膳貞信系ツ之内、
尊氏以来足利家之カン状証文等数通、
並重代之太刀之事有之テ今所持歟
信胤は勝山に帰国せず、元文元年八月に大坂より直接江戸に登っている。
この時の江戸上屋敷は神田橋外である。元々ここに鶯丸と感状があったのか、
勝山から運んできているのかはわからなかった。
元文元年九月十三日(1736/10/17)
の台覧の記録は小笠原、徳川両側に残されており、
鶯丸、久國、眞長の太刀と、それらを拝領したときの義教からの感状が台覧されていることがわかる。
『勝山小笠原家譜』
元文元丙辰年
九月十三日 有欽命家系之儀御尋之砌
政康自義教将軍所賜之感状三通並
久國真長友成之太刀等備上覧有賞誉之命
『寛政重修家譜第百九十五』
元文元年九月十三日おほせによりて普廣院義教の感状、
をよび久國眞長の太刀、ならびに友成作の鶯の太刀等を台覧に備えふ。
『有徳院殿御實紀附録巻七 』
小笠原左衛門佐信胤よりは。足利将軍義教のとき下されし 御教書及び感状に。
久國眞長の太刀(鶯と銘す。)を御覧に呈し 御褒詞を蒙る。
また、台覧の後には勝山に使者が遣わされている。
『森文書,御用留』
十月二十二日 江戸より御使者勝山へ、
御重代御太刀其外御先祖代々御感状等御上らん相済候旨由来ル、
二十三日御家中登城、御祝義申上ル
信胤の移動日時、上屋敷の場所は『勝山小笠原家譜』を参照した。
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