分かたれた"小笠原"に伝わるもう一振りの太刀・"鶯"

鶯丸の経歴にはあまり関係ないのですが、小倉藩小笠原家には 鶯と号される摺上の太刀が伝来しています。
家譜の貞慶の項に、父から鶯その他を受け取るという内容があるのですが
このことから、府中系に友成の鶯太刀が伝わったことがないことがうかがえます。
しばしば、小笠原文書や宝刀を含む重代の什器をめぐって 小笠原同士争うのですが、お互いの家系図において、
「うちに伝わった」という主張がなされています。
歴史解説書でも、小笠原文書は、 府中にわたりいずれかの時代に松尾に渡ったのだろうという見解もありますが、
長時、貞慶の時代には府中になかったことを考えると、 松尾に通して伝わったと考えるのが妥当であると思われます。
このもう一振りの鶯はなんとなく気になる存在なのでまとめてあります。

[A12]「御当家末書」


太刀の「摺上」は室町中期ごろから行われ始めたと思われる。
嘉吉二年1442年に摺上をした切付銘が残る太刀が現存しており
それが摺上の最初期であろうと、「京のかたな」(2018)図録に記載されている。
小笠原政長が禁中で鶯を射たとされるのはそれより100年近く遡る南北朝時代で、
もし太刀を賜ったとしたら"摺上の太刀"をもらうのは不自然。
また、禁中より賜った太刀を後世に摺上るのも少し不自然。(信長ならやるんだろうけど)
(身に合わせ佩くために摺上るのであって、宝刀であったなら摺上る必要がない。)
「不知何時摺上」と書かれ、いつ摺上たのかはわからんと付記されている。
元々、家伝にはあった鶯を射たというエピソードがあったのに対し、
なんらかの理由で太刀を貰ったというエピソードを後付けしたのではないだろうか?
成立年の早い家譜(寛永諸家譜伝)に於いては、鶯のエピソードはあれども、
そのときに褒美の太刀を賜ったというエピソードは存在しない。



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