元土佐藩維新志士としての田中光顕と陸奥守吉行

鶯丸を献上した明治40年当時宮内大臣であった田中光顕は、土佐の出身。
(鶯丸を所持していたのは維新から大分たった後の1906-1907=明治39-40年の1年位)
幕末には元土佐勤王党隊士であり一時脱藩し、 帰藩の後に中岡慎太郎率いる陸援隊副長となった
坂本龍馬とも親交があり、龍馬、おりょうらと京都の街を散策したことなどを自伝に記している。
また、近江屋事件時(1867=慶応3)には事件発生直後近江屋にかけつけた一人であり、
龍馬最期の様子と陸奥守吉行の様子を記している(維新風雲回顧録[C2])。
事件当初駆け付けた土佐藩士たちは、龍馬襲撃の犯人として新選組の名を挙げていた。
このことが近藤勇の処刑につながる。
(特に田中と共に近江屋駆け付けた谷干城が強く主張したと言われている。)

反りのなくなった陸奥守吉行と思われる刀の様子を1929年(昭和4)の 伝記内のインタビュー記事にて残している。 (「伯爵田中青山」[C1])
文から察するに、田中光顕は陸奥守吉行が火災にあったことはしらなかったもよう。
wiki(陸奥守吉行の項)には陸奥守吉行が火災にあったのは1913年とある。

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